ブログ的人間関係/kittsan流ブログの意味(7)

年を取るに従って、人間関係が楽しくなるか、煩わしくなるか。

人それぞれでしょうが、私の場合などはどちらかというと後者のような気がする。

まあ、これはコインの裏表や、一人の人間の中の欝と躁の関係みたいなものだけれど。

とりあえず、昨今はあまり人とつきあいたくないモードの私。

でも、人のことは気になるし、少しは自己主張もしたい。

そういう人間にとって、ブログは快適なツールですね。

この文章を書いている途中、NHK総合テレビ「爆笑問題のニッポンの教養」という番組をみました。

東大教授の姜尚中さんがゲストで「愛の政治学」がテーマ。

政治を、政治家や国家の営みだけに限定するのではなく、

恋や友情など一人一人の身近な人間関係、

つまり「自己と他者のつながり」そのものに求めるという考え。

秋葉原通り魔事件に言及。

殺人予告を無視されたと感じた犯人は、社会と繋がっていない自分に絶望し、自殺的殺人を犯した。

けれども、社会(他者)と自分との関係の前に、自分と自分を見る目が育っていたら、

違う人生を送ったのではないか。

ブログは社会と個人、他者と自己を繋げる今日的ツールです。

バーチャルであるか、リアルであるかは別の大きな問題になるだろうけれど、

人間は、表現されたブログの後ろにある人の息遣い、個性の違いを認識する能力がある。

だから、コメントとかトラックバックという、リアクションが有効なんでしょう。

と同時に、ブログは自己と自己を繋げる、自分で自分を問う場でもあるでしょう。

自分が発したアクションにリアクションが感じられないとき、

何故なのか、考えること、悩むことが必要なんですよね。

孔子は「四十にして惑わず」と言っています。

でも、幾つになっても「悩む力」は衰えるものではありません。

また、荘子に「淡交如水」というすばらしい言葉があります。

「君子の交わりは淡きこと水の如し」

ともに、大人の人間関係は、そうありたいものです。