論理的コラムと心情的ブログ

考えることとか

迷うこととか

悩むこととか

議論することとか・・・。

もうすっかり古くさくなってしまった「屁(へ)理屈」は、

私たち世代の遺物なんだろうか?

・・・と、思えてしまう池澤夏樹氏の連載コラム「終わりとはじまり」。

(1/8朝日夕刊)



■「思い」と「考え」の間で

軽い言葉 軽い衆議院

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今、気になっているのは、みんなが「考える」より

「思う」でことを決めるようになったことだ。

五分間の論理的な思考より一秒の好悪の判断。

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ぼくはいわゆる知識人の一人だ。

今の世界について情報を集め、

自分の中にある思想と突き合わせて、

なるべく論理的に意見を構築する。

それが社会に対する自分の仕事と思っている。

しかし、知識人と言うのは何の資格でも権限でもない。

この欄で書いてきたようなことはすべて

新聞を読む人たちに向けた助言・提言でしかない。

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SNSが一人一人が発言することを容易にした、

ということもあるかもしれない。

それは「思い」であって「考え」ではない。

システムはそれを束ねて増殖させる。

「思い」に自信がつき「考え」を排除する。

時には多くの人が手近に敵を見つけて叩く

というゲームに熱中する。

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この人も、こういう事を文章にするたびに、

どれだけ自分でじぶんを鼓舞しているんだろうと推測する。

他人事でモノを書いているとお説教になってくる。

お説教ではなく、知的に書くと言うことは難しい。

社会と自分を信じて、辛抱強く冷静に、真摯にと言うことか。

新聞コラムを続けることも、

個人のブログを続けることも同じ事。

まあ、私の場合は知的と言うより、

「ああ心情」をタイトルにしちゃったほうがいい方向なんだけれど。