私にとっての、今年の父の日

静岡市中町日赤病院前の「奇跡のクスノキ

70年前の静岡大空襲(1945年6月19〜20日)で焼き尽くされながらも

炭化したような状態になっていた幹から3年後に奇跡的に芽が吹き、

今日まで生き残ったものだそうだ。


70年前、私の父も多くの兵隊が全滅した太平洋南方の島から、

奇跡的に日本に生還することが出来たひとりだ。

私の父(杉山清一)は大正11年に生まれ、平成20年に86歳で没した。

父の青春時代前半は太平洋戦争の真っ直中。

徴兵制が敷かれて、多くの男子と同じように赤紙が来て戦場にかり出された。

父が行った戦地はフィリピン・ミンダナオ島ダバオ市

南方の島々は激戦地と化し、生き残る人のない玉砕の島々も多々あった。

私の父がフィリピンの戦地へ着いたときの第一印象。

「兵器も食糧も不足していて、これでは戦争に勝てるわけがない。」

そう思ったそうだ。

その後戦闘が激化し、ミンダナオ島の山間部のジャングルに身を潜めた日本兵は、

それこそ蛇でも蛙でも何でも食べたらしい。

他の戦場同様、ここでも戦闘で倒れることより、むしろ病気や飢餓のため、

数万人の兵士・民間人が死亡したのが事実だそうだ。

父は衛生兵という役目で後方にいたため、戦闘現場に出ることは少なかったのか、

九死に一生を得て、日本へ帰還することが出来たのかもしれない。


父の母親(私の祖母)は、父が戦場から実家に戻ったとき、

「清ちゃん、あんた足があるかね。」と叫んだという。

そのくらい奇跡的な生還だったそうだ。

そしてしばらくして、マラリア熱に犯されて生死の境をさまよった時期があった。

私の祖父「吉蔵」(父の父親)は戦時中、防災班の代表を務めていたそうだ。

1945年6月19〜20日静岡大空襲の時、

ここの一番町学区は市の中心部だったため壊滅的な焼け野原となった。

炎から身を守るため、多くの住民を連れて、

番町小学校のプールの水の中に身を潜めて難を逃れたという。

終戦後、父は祖父の起こした家具職人の仕事を再興し、

母と結婚して私が生まれ、現在に至っている。


父は私に戦争の話はほとんどしなかった。

思い出したくないことが山ほどあったに違いない。

それでも同期の戦友達との交流は欠かさなかった。

その戦友達もひとり亡くなりふたり亡くなり・・・。

もうその当時のことを伝える人が居なくなってしまっている。

私は最近、母や父の妹など、当時の事を経験している人たちから

多くのことを聞き出し、資料を残していかねばと思っている。

そして子供達にも、その事を伝えていかねばと思っている。

戦争のことは概念や議論だけではなく、市民個人の体験が不可欠だと思っている。